ダヴィンチ・コードは、イエス・キリスト教の教えで「賤しい娼婦」とされマグダナのマリアは実は、イエス・キリストの最も信頼された信徒であり、妻でありイエス・キリストの子供を産み後生にその血脈を伝えたとしたこととし、それは実話に基づく内容としたことで物議を起している作品です。
多分キリスト教の歴史が浅い日本人からしてみたら、何故そこまで騒ぐのかと思う人も多いかもしれません。
ダン・ブラウン自身、分かっててやっているのか、知らないでやっているのかは不明ですが、実際に史実に現存する組織や建造物といったものと、架空の要素絶妙にくわえ、虚実を分からなくさせた上でミステリーとして魅せる物語を作り上げています。そこがまたこのいらぬ混乱を呼んでいるようにみえます。
問題のマグダナのマリア自身は、1969年に、賤しい娼婦であったとしたのは教会の解釈の謝りであったとヴァチカンにより訂正声明がだされています。(30年以上たっているわりに、この事実あまり周知のことになっていないところが、なんとも固定観念の怖さが感じられますが)
現在において シオン修道会及び、ダ・ヴィンチが総長だったと証明していた極秘文書はペテンだったという事が証明されてしまいました。
またダ・ヴィンチ自身、精神的な問題でそういった組織の総長を出来るタイプではなかったともされています。(彼自身宗教観と思想をもっていたようですが。)
何が問題なのかというと、イエス・キリストの結婚ということになるのですが、この事は、聖書において証明することが一切出来ず、 文章およびその行間にあるであろうことの解釈違いのみとなってしまい決着を付けられない状況になってしまい、さらにそれが紛糾してしまっているようです。
キリスト教のそしてイエス・キリスト自身の何処に重きをおいて信仰しているかで、反応もかわり、教え及び人となりと愛している人はそういう可能性もあるかもしれないと傍観の構えでいるようですが、権威や神秘性を求めていた人が特に過剰に反応しているようです。
またイエス・キリスト教権威の象徴であるヴァチカンなどにとっては許すまじき考え方なのでしょうね。それだけに過剰な反応がますます論争に火をつけているのもたしかですが、、
また現在、ナグ・ハマディー文書やユダの福音書などいった異端とされ新約聖書に入れられず破棄されていた文書が次々発見され研究されていることで、現在信じられているものと違う教えと示唆する動きもあるだけに色々と敏感になっていることもあるのかもしれません。
確固たる男性社会を確立するために、女性を蔑め、女性信徒であったマグダナのマリアをあえて他の信徒より下の位置づけへともっていったり、イエス・キリスト殺害がローマ人であることをごまかすために ユダを必要以上に悪くし、商業的に目障りであったユダヤ人をユダと結びつけ矛先をそちらにむけさせたりと、政治的に宗教を利用し、民衆を誘導していった過去が事実なものの、根底であるイエス・キリストを守ることで、世界中のキリスト教徒の心のよりどころでもある宗教自体の神秘性権威を保ち民衆を導き続けたいというところなのでしょうね。
コブタ自身今は日本人に多い無信教状態です。
学生時代クリスチャンだった母と共に数年教会に通っただけで、キリスト教について詳しいわけではありませんが、私が考えるキリスト教の根底の考えって、人を愛し受け入れそして助け協調していくということだったように思えるのですが、なぜキリスト教の歴史は、否定、排除の繰り返しになってきているのでしょうね。
そして 民衆が目の前に激しく行われていることを鵜呑みにしそして全体として間違えた方向にいってしまうことも歴史の常、、
この、「ダ・ヴィンチコード」 今まで自分たちが信じ切っていた物事をまったく違う視点でみる面白さを教えてくれます。
でもそれはそれで 多くの中の一つの見方!
鵜呑みにするのではなく、自分の中塾講しそして自分自身の違う見方を見つけ出す、そういう問題定義をしてれたという意味で価値のある本ではないでしょうか?
過去のある時期、 マグダラのマリアとの人間的な関係をもつイエス・キリストの姿や、ユダを愛すべき聖なる存在としたり、聖ペテロを嫉妬深く短気な人物とした そういう考え方されていた人もいて、そういう文書も存在しいたのは確かですが、実際のところ、新約聖書に書かれたことと、それらの文書に描かれているどちらの姿が真実かというのは現在にのいて知る術はないように感じます。なので聖書をどう解釈しするか、否定や拒絶ではなく 広い視野で物事を見ていく意味でこういった騒動は価値あるように感じます。

