ダヴィンチ・コード始りましたね~。
コブタは水曜日にいく予定ですので、あえて他のみなさんの感想を読まずにウズウズしている所なので、今日は私がこの映画をみるために勉強して感じたことを、ちょっと語ってみようかなと思います。
映画をみる前準備として コブタは原作を読んで、色々資料読んで、ドキュメタリー番組を5本ほど鑑賞しました。
それによって世界で物議を醸し出している問題を多方面から観ることができ、ダヴィンチ・コードだけの内容ではなくキリスト教のあり方、政治と宗教の関係、民衆の誘導、物事の見方、理論の証明の仕方といった様々な要素で色々考えさせられました。
ダヴィンチ・コードは、イエス・キリスト教の教えで「賤しい娼婦」とされマグダナのマリアは実は、イエス・キリストの最も信頼された信徒であり、妻でありイエス・キリストの子供を産み後生にその血脈を伝えたとしたこととし、それは実話に基づく内容としたことで物議を起している作品です。
多分キリスト教の歴史が浅い日本人からしてみたら、何故そこまで騒ぐのかと思う人も多いかもしれません。
ダン・ブラウン自身、分かっててやっているのか、知らないでやっているのかは不明ですが、実際に史実に現存する組織や建造物といったものと、架空の要素絶妙にくわえ、虚実を分からなくさせた上でミステリーとして魅せる物語を作り上げています。そこがまたこのいらぬ混乱を呼んでいるようにみえます。
問題のマグダナのマリア自身は、1969年に、賤しい娼婦であったとしたのは教会の解釈の謝りであったとヴァチカンにより訂正声明がだされています。(30年以上たっているわりに、この事実あまり周知のことになっていないところが、なんとも固定観念の怖さが感じられますが)
現在において シオン修道会及び、ダ・ヴィンチが総長だったと証明していた極秘文書はペテンだったという事が証明されてしまいました。
またダ・ヴィンチ自身、精神的な問題でそういった組織の総長を出来るタイプではなかったともされています。(彼自身宗教観と思想をもっていたようですが。)
何が問題なのかというと、イエス・キリストの結婚ということになるのですが、この事は、聖書において証明することが一切出来ず、 文章およびその行間にあるであろうことの解釈違いのみとなってしまい決着を付けられない状況になってしまい、さらにそれが紛糾してしまっているようです。
キリスト教のそしてイエス・キリスト自身の何処に重きをおいて信仰しているかで、反応もかわり、教え及び人となりと愛している人はそういう可能性もあるかもしれないと傍観の構えでいるようですが、権威や神秘性を求めていた人が特に過剰に反応しているようです。
またイエス・キリスト教権威の象徴であるヴァチカンなどにとっては許すまじき考え方なのでしょうね。それだけに過剰な反応がますます論争に火をつけているのもたしかですが、、
また現在、ナグ・ハマディー文書やユダの福音書などいった異端とされ新約聖書に入れられず破棄されていた文書が次々発見され研究されていることで、現在信じられているものと違う教えと示唆する動きもあるだけに色々と敏感になっていることもあるのかもしれません。
確固たる男性社会を確立するために、女性を蔑め、女性信徒であったマグダナのマリアをあえて他の信徒より下の位置づけへともっていったり、イエス・キリスト殺害がローマ人であることをごまかすために ユダを必要以上に悪くし、商業的に目障りであったユダヤ人をユダと結びつけ矛先をそちらにむけさせたりと、政治的に宗教を利用し、民衆を誘導していった過去が事実なものの、根底であるイエス・キリストを守ることで、世界中のキリスト教徒の心のよりどころでもある宗教自体の神秘性権威を保ち民衆を導き続けたいというところなのでしょうね。
コブタ自身今は日本人に多い無信教状態です。
学生時代クリスチャンだった母と共に数年教会に通っただけで、キリスト教について詳しいわけではありませんが、私が考えるキリスト教の根底の考えって、人を愛し受け入れそして助け協調していくということだったように思えるのですが、なぜキリスト教の歴史は、否定、排除の繰り返しになってきているのでしょうね。
そして 民衆が目の前に激しく行われていることを鵜呑みにしそして全体として間違えた方向にいってしまうことも歴史の常、、
この、「ダ・ヴィンチコード」 今まで自分たちが信じ切っていた物事をまったく違う視点でみる面白さを教えてくれます。
でもそれはそれで 多くの中の一つの見方!
鵜呑みにするのではなく、自分の中塾講しそして自分自身の違う見方を見つけ出す、そういう問題定義をしてれたという意味で価値のある本ではないでしょうか?
過去のある時期、 マグダラのマリアとの人間的な関係をもつイエス・キリストの姿や、ユダを愛すべき聖なる存在としたり、聖ペテロを嫉妬深く短気な人物とした そういう考え方されていた人もいて、そういう文書も存在しいたのは確かですが、実際のところ、新約聖書に書かれたことと、それらの文書に描かれているどちらの姿が真実かというのは現在にのいて知る術はないように感じます。なので聖書をどう解釈しするか、否定や拒絶ではなく 広い視野で物事を見ていく意味でこういった騒動は価値あるように感じます。


この記事に対するコメント
絵里香さん こんにちは!
コメントありがとうございます。
現在 宗教は冠婚葬祭の時のみで、日常生活においては密接な関係がまったくなくなってきてしまっているので仕方がないといっては仕方がないのでしょうね。
でも そういう時代だからこそ、こうった論争をして改めて考えてみるのもいいのかもしれませんね!(^^)
コブタさん
レス有難うございました^^
確かにマスコミ騒ぎすぎですよね。特にフジテレビは、ちゃんとした聖書学者さんを呼んでいないで、偏見のまま勝手に解釈していましたね。
今度の騒動で分かったのですが、若い人が宗教に関心がない人が多く、またなんというか、無関心ではなく、無知と言うか、それが気になりました。
「最後の晩餐」はキリストの絵だったのか~とか、「モナ・リザ」ってダ・ビンチの絵だったのか~とか、聖書って、いろんな人が勝手に作ったり削ったりした、どうせでたらめな書物でしよ、とか色々書き込まれているのを読んで、愕然としてしまいました。
それだけ、日本は平和、というか、全く宗教心が消えていったのでしょう。多分仏教は形骸化していると思うし。
災い転じて福と成す、ように、皆様が少しでも興味を持ってくれれば嬉しいです。
絵里香さんへ
コメントありがとうございます!
ダン・ブラウン自身、ノストタラダムスやUFO研究家並の胡散臭さで マスメディアに登場していますね。
彼の小説の描き方にもかなりの問題あると思うのですが、周りの騒ぎ方、また本題とズレたところを取り上げて騒ぐマスコミにも問題あるようにも感じます。
でも、逆にこれだけ騒動になったこどで、いままで宗教に興味がまったくなかった人が、関連書籍などで宗教について、芸術について勉強していっていることは いいことなのではないでしょうか?
残念ですが、息子を牧師の卵として持っているわたしにて見れば、「ダビンチ・コード」しやはり、おかしい所ばかりです。
人々の無知に付け込んで、怪しくしていると思います。
作者ダン・ブラウンはよく調べもせずに、一部の外典と呼ばれている書物と、アリウス派やグノーシス派といったものに少々毒されているでしょう。
もともと聖書にはもマリアと言う名前の女性は六人居るんですよ。それなのに、作者や、訳知りのテレビは全員ゴチャゴチャにしているじゃないですか。
私はプロテスタントだから、もともと聖杯とか信じていません、そもそもイエスが飲んだ聖杯なんて、あるわけないじゃないですか。
無理やり結婚したというようなお話は昔から、色々あって、ダビンチ・コードだけじゃないですよ。
にケーア会議にしても、嘘だらけです。何百とある写本では、ほとんどつけたり矢間違いはありませんよ。
彼だけのことを信用しないように、もっと勉強すればわかりそうなものですからね。こういうふうにして、皆デマに踊らされるんですね。
なぜもっと単なるミステリーとしてしか見ないのか、不思議です
チャドさんどもども~(^^)ノ
私も宗教は必要なものだと思います。
人間にはなんらかの心の支え正しい人道をしめすものとして必要だとは思います。
また 罪を法律ではなく、自分自身が良心判断する指標にもなると思いますし。
でも本来人を幸せにするためのものが 人間の使い方で、時として人を傷つけ 他社を不幸にするというのがなんとも悲しいものですよね。
今日久しぶりに更新したら
コブタさんも同じネタでしたね!
トラックバックさせていただきまーす。
キリスト教というのは大きな宗教ですからね~。
それだけに叩くとホコリもいっぱい出てきてしまいますね。でもそのホコリだけを見てキリスト教の良いところを見失ってしまうのも違いますよね。
僕も宗教とかにはあまり関わりがない人間ですけど
やっぱり宗教というものは必要だから存在してるんだと思いマッスル。
うむ。いつものとおり主題からかけ離れた文ですね。